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はじめに

ブログを開設してみようという気が起こり、開設したものの何を書いてよいかよくわからないからとりあえず放置しておこうと思って放置していたのがこのブログ。

 

正直まだ何をこれから何を書いていこうか定かではないし、面白いものを書ける気も全くしない。

とりあえず、野球のこととか、普段している勉強のこととか、何か気になったこととかを書いていくんだろうなと思う。

 

なんでまた放置していたブログを開始する気になったかといえば、完全に気まぐれとしかいいようがないのだが、大学を卒業したからである。

大学を卒業したからブログを始めるという理由は、「いかにも感」が満載ではあるが、もちろんそれだけが理由なのではない。

一見関係が内容に関係ないように見えるが、関係のある理由をちょっと書いてみようと思う。

 

あ、BGMはスチャダラパーの「ヒマの過ごし方」でお願い!!

 

 

私たちは皆生きている限り何らかの活動を日々行なっている。

私たちは皆何か活動しない限り日々生きていくことはできない。

生きているということは何らかの活動をしているということである。

そうであれば、生きていることは活動することである、という単純な事実に対して私たちはいかにして価値的な判断を下すことができるのだろうか。

 

それがどないしたんや?と範馬勇次郎ばりに喝破されたら、ここでこのお話は終了してしまう。

ここからが本番である。

 

というのも、「生きているということは何らかの活動をしている」という事実と、その事実を私たちの実感に落とし込む作業(=価値判断を行なう)を、恣意的ではないにせよ分離してしまうということに危機感を覚えたからである。

 

私たちは往々にして表層的な事実を知ることに夢中になる。

気になる情報は大体ググって終わりだ。

もちろん僕もそうだ(と思うし、そうだと思ってるからこんなことを書いてる)。

軽い媒体で軽い情報を軽い仕方で表現することしか私たちは普段しない。

もちろんそんなことはしない人はいるだろうし、もしかしたら表現すらしない人もいるかもしれないし、お前だけだと罵倒されるかもしれない。

しかし、本来なら何らかのバイアスがかかるはずの話題、例えば「何々は○○らしいよ」という話題を出す時、通常私たちは事実として受け取った情報をそのまま事実として流すことを行なっているように思う。

そこには、問題の真偽を明らかにしようとする「検証」はおろか、私はそうは思わないよという「価値判断」を下すことも差し控えられているように思われる。

したがって、「検証」はおろか「価値判断」を行なうということが差し控えられている、ということは「何らかの活動」を制限されているということである。

 

さて、冒頭にあげた命題「生きているということは何らかの活動をしている」に帰ろう。

なんということでしょう・・・。

私たちは、本来制限されるべきではない価値判断を下すという活動をなぜか制限している(ないし制限されている)。

私たちが悪いの?それとも社会?

そんなことはどうでもいい。

僕は自由に「生きたい」。

そう思った。

 

じゃあ、このブログを使って価値判断をガンガンしていこうじゃないか。

そんで、何か反応があったらラッキーだな。

というような理由が見つかったから今年はブログを更新していく。